人と本質的に会えるのは、ほんの一瞬。 「毎日会えてる」気がするのは、体が鈍感だから。
こんにちは、tomaです。
最近、
「私はただ、人と会いたいんだな」
と、つくづく実感しています。
「人と会う」といっても、
色々あると思うんですが、
例えば、
「コンビニの店員さんとレジで会う」
というのは、
私的には、「会えてない」です。
(人間を極めた人なら、会える場合もあるかも…)
「旧友と久々に会う」
という場合、
「会えてる」かもしれないし、
「会えてない」かもしれません。
会って話をした時に、
何も感じなかったら「会えてない」ですし、
「嬉しいなぁ」と感じられたなら、
「若干会えた」のだと思います。
そして、
「本質的に会えた…」という状態の時は、
「空気や体が震える」んですね。
場の雰囲気が急に美しく感じられたり、
鮮明に感じられたり、
体の内側からジワーっと震えが起きたりします。
そして、余計な緊張や嘘っぽさのない、
とても神聖な気持ちになります。
和やかさともちがう、
明るさともちがう、
胸の高鳴りとも全く違う、
肚(はら)の底からの震え(振動)。
突然、こんな話を書いているのは、
私が、最近「人と会えた」と感じたからなんですね。
(ここ1年間で一番会えた気がします)
先週土曜の夜(カレー営業時)に、
「鈍感さゆえに、哀しみを感じられなくなってしまった人(Aさん)」
がいたんですけど、
Aさんは本当に絶望的な状況でして、
とても哀しい状況に置かれているのに、
持ち前の明るさで、無意識に全力の現実逃避をしていました。
それに対して、
Bさんが、いてもたってもいられなくて、
全身に震えを纏い、
Aさんに「絶望しろーーー!!!」
「現実に戻ってこい!!!」
「生きろーーー!!!」
という祈りを込めた突っ込みを始めました。
その感じが、激しくて温かかったんですね。
「私が教えなきゃ!」とか
「この人を救わなきゃ!」みたいな、
浅はかな上から目線ではなく、
「いてもたってもいられない!」という、
とても純粋な「震え」があって、
私や、由美氏も、Bさんの「震え」に感化されて、
いつのまにか、Bさんと共に、
「震え」を纏った言葉をAさんに送っていました。
しばらく「震え」を送り続けるうちに、
Aさんの鉄壁のガードが徐々に緩まり、
Aさんもだんだん「震え」てきました。
その時に、「部屋の空気が変わった」んですね。
「あ、やっと会えた…」
「そういえば、こういうのが欲しかったんだよな…」
と。
(文章にすると、浅い表現になってしまい、哀しいのですが…)
「人と会える」のは、ほんの一瞬。
非常に尊い事だと思います。
「平和ボケ」では、誰とも会えない。
スマートに生きるだけでは、誰とも会えない。
飲み会をしても会えないし、
スピリチュアルを学んでも会えないし、
瞑想しても会えない。
「深い哀しみ」や「深い絶望」の奥に、
「本質的に人と会える」
という光があるのかもしれません。
そう考えれば、
東日本大震災などの哀しい出来事にも
希望を見いだすことが出来るかも…。
壮絶な哀しみを知ったからこそ、
「人と会えて」震える。
嘘が限りなく少ない、
体の内から湧き上がる震え(振動)。
平和な日常の中にある「哀しみ」や「絶望」を
繊細に感じきって、
「人と会える奇跡の瞬間」を集めていきたい。
そんな気持ちの今日この頃です。
「会いたい」方は、遊びに来てください👇
https://ameblo.jp/waku-chu-gyu-cafe/entry-12463419365.html
会えたら奇跡です。