「集合的無意識とは」① ~「私」と「他者」を切り分けて考えるのは、的外れ ~
こんにちは、tomaです。
今回は「集合的無意識」の話。
私は色々考えた事を人に話したり説明したりするのが好きなのですが、
一度、こんな質問を受けたことがあります。
「それって自分で考えた話?」
「それとも誰かが言ってた話?」
その時は、
質問の意味がよく理解できなかったのですが、
後々考えると、
「私が話した意見」の所有者が誰なのか?
という意味の質問だったのだと思います。
もし、そういう意味だとすると、
かなり「違和感」があります。
というのも、
「完全に私が考えた話」
なんて一つもある訳がないし、
「完全に誰かが考えた話」
だったとしても、
私がそれを話した時点で、
言葉のつなぎ方や、抑揚のつけ方などで、
全然印象の違う話になってしまうからです…。
私の話は、
ある種「私が考えた話」だと思います。
一応考えたので。
でも、話の材料になっているのは、
「ニュースの記事を書いた人の考え」
であったり、
「ある歴史本を書いた人の考え」
であったり、
「日常の出来事」
であったりと、
全て他者や周りの環境から取り入れた情報なので、
ある種「誰かが考えた話」だといえます。
私が考えた所といえば、
「情報を抽出し、再構成した所」だけ。
しかも、
「情報を再構成する方法」すら、
教科書とか学校で教わった事だったりもして、
もう、
「私が考えた話」
などとは、とてもいえません。
「完全に私が考えた話」
とはいえないけど、
「完全に他人が考えた話」
ともいえない。
そう考えると、
「私」と「他人」の境界線って、
案外曖昧なんじゃないか、
と思うんです。
私の性格は、
「親、兄弟」から影響を受けているし、
「先生、先輩、後輩」から影響を受けているし、
「友人、同僚」から影響を受けているし、
「本の著者、TVタレント」から影響を受けているし、
「育った土地、気候」から影響を受けているし、
もう、「誰だよお前」って感じ(;´∀`)
でも、影響の受け方は
私自身が選び取っていたりします。
同じ絵画を見ても、
私と他の人では、感じ方や解釈がちがったり、
同じ本を読んで「読書感想文」を書いても、
全然違う作文が出来上がります。
(育った環境や人間関係が類似している双子でも、
全く同じ感じ方や、全く同じ作文にはなりません(´▽`))
だから、
「他者が私を作っている」し、
「私が私を作っている(他者が私を作っていない)」。
厳密にいえば、
どちらも本当だし、
どちらも嘘になります。
式で表すと、
「私」=「他者の集合値」
「私」≠「他者の集合値」
この矛盾を解決するには、
言葉ではなく、図で考えた方がいい気がします。
👇
上図では、
「私」は「Aさん~Fさん」の要素を持っています。
【「私」=「他者の集合値」】
しかし、
全要素を持っている訳ではなく、
何割かずつ持っている感じです。
【「私」≠「他者の集合値」】
全く同じではないけど、全く違う訳でもない。
そして、私との要素の重なり度合いが、
A~Fさんそれぞれ違います。
さらに、時と共に、
要素の重なり度合いはどんどん変化していきます。
新キャラとの重なりも生まれてきます。
つまり、
「私」と「他者」を切り分けて考える事自体が、
的外れなんじゃないか(;´∀`)
「私のお金」「他者のお金」
「私の特許」「他者の特許」
「私のガッキー」「他者のガッキー」
私の所持金は、私が稼いだともいえるし、他者の協力のおかげともいえる。
私の特許は、私の発明だともいえるし、他者(先人たち?)のおかげで取れたともいえる。
※ガッキー(新垣結衣)は誰のものでもないっ!
あらためて、
「私」と「他者」は、同じではないけど、共通項はある。
「私の所有物」は、私の物だけど、他人の物でもある。
つまり、
「私」と「他人」は重なっている(切り分けられない)。
そう思います~(^^)/
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